【50代の生き方】高齢の親と自分の人生と

最近自分の周りで、高齢の親の病気や介護、看取りなどの話が一気に増えてきました。
特に50歳前後の子供が、70代80代の親の介護で、自分の人生や暮らし方を悩むケースがすごーく多い。
そして共通しているのが、みんなそれぞれの問題を、それぞれの家の中でだけ抱えているということ。
この状況、きっとこの先どんどん増えていくんだろうなぁ、、、。

誰にも話せないこと、家族だけでなんとかしなくちゃいけないことと思ってしまうと一層苦しくなってしまう。。
せめて「自分だけじゃないんだな」って思えたら、少しでも肩の力が緩むんじゃないだろか。
そんな気持ちでこの問題について書いてみることにしました。

この、人生後半にやってくる、避けては通れない関門、どうやってくぐっていけばいいのでしょうね。
同じように悩んでいる方や私はこうだったよなど、よければぜひコメントください。

きみのや

私も悩みが尽きない日々を送っている最中です。

目次

それぞれの家の、それぞれの事情

高齢の親がらみの悩みと言っても、家の数だけその悩みの内容もいろいろでして。
例えば私の友人知人の話では、

・引っ越して家を建てる予定だったのが、義親の介護が始まって計画が中止になった
・いつ急変するかわからない病気の親と暮らしている
・物が大量にあふれた実家の片付けをどうすればいいかわからない
・年々わがままになっていく親とどうつきあえばいいかわからない

・突然起きる親の病院の付き添いで、仕事の段取りが組めない

といったような悩みがあるようです。(T . T)

そしてどんなケースでも必ずついてまわるのが、メンタルの部分での悩み。
日本では、“子は親の老後の面倒をみるのが当然的な考えがかなり根強くあるので、
自分の生活を犠牲にしてでも親のために尽くそうとする人がとても多いんだけど、それが結果的に自分を精神的に追い詰める場合があるんですよね。

「私さえ頑張れば、すべて丸くおさまる」
「できるだけのことをしてあげないと、親がかわいそう」
「ちゃんとしないと周りに冷たいと言われる」
これはほんの一例、そして、かなり偏った見解かも知れませんが、
実際友人の多くがこういった“言い訳”や“折り合い”をつけて、
本能でなく“理性”だけで頑張っている現実があります。

高齢の親がいるいないにかかわらず、自分のことで精一杯という現実

ところで、高齢の親がいるということは、自分の歳もアラフィフと言われる50歳前後になっています。
この歳になると、特に女性の場合は閉経や更年期による体の変化で、体調の浮き沈みが激しくなったり感情の揺れが大きくなったりすることが多いです。

私も40代後半から、こうした変化をすごく感じるようになりました。
今は誰もが“若くキレイでいることをがんばる”時代なので、見た目的には大きく変わらないけれど、体は確実に老化していて、疲れやすくなったり夜眠れなかったり、目がしょぼしょぼしてきたり、いわゆる不定愁訴の症状が、これでもかこれでもかって現れてくる。
そこへもって、何かをやり遂げたような人でない限り、
「私の人生って一体なんだったんだろう、、」的な、自己嫌悪だとか満たされない感、老後への不安を感じ始めます。

きみのや

ちょうど人生を見直す時期ですね。

なので、
50代は高齢の親がいるいないにかかわらず、自分のことで精一杯
という現実が、まず問題。

体力気力が充実していて経済的に余裕があれば、違うのかもしれないけれど、
多くの人は今の時代を生きることに必死だと思う。

だから高齢の親にまつわるさまざまな悩みってのは、親だけの問題だけじゃなく、
親を介護する側の、看取る側の子供にとっても、自分の人生を改めて見直す、とても大きな人生の節目になってくる。
親の問題と自分の人生と、すべてがうまく行く方法なんてどこにもないからこそ、
優先順位を決めなくちゃいけなくて、
そこにはどうしても、諦めとか妥協、我慢がついてまわる。
これはしんどいですよね。
真正面からまともに向き合うと、しんどいことばかり、、、。
ならばなにか、気持ちを切り替えるいい方法はないものでしょうか?

見方を少し変えてみると気持ちが楽に

こういった“ネガティブ思考のしんどい沼”に陥ってしまう時は、ものの見方を少し変えてみると気持ちが楽になることがあります。

私は自分の経験から、親に対して、
「なぜ嫌悪感がわくのか」
「なぜ優しくできないのか」
「なぜ割り切れないのか」

そんなことをずーっと考えてきたわけだけど、
その答えはずばり、
「親だから」
これに尽きることがわかりました。
そう、親だから腹が立つ、親だから素直になれない、親だから割り切れないんです。
と、いうことは、
「親」なんだけど、「親」とは少し違った見方で接してみれば楽になれるのかもしれません。

例えば、
老いることってどういうことかの研究対象として見てみるとかですね。( ̄▽ ̄)

不謹慎なー!!!という外野の意見は無視しましょう。笑
これは、自分を守るひとつの知恵みたいなものなので。

ネガティブな出来事の中にも、新たな発見や面白さは共存しているはずです。
私は少しでもそういうものを見つけられると、気持ちが楽になっていく気がするので、
最近はできるだけ感情に揺さぶられないように、あっさりと俯瞰して物事を見るようにしています。

諦めが肝心

それぞれの家、それぞれの親子関係の中に、高齢の親にまつわる悩みは必ずあって、
そのほとんどが明るい話にはならず、どうしてもどんよりとした空気になってしまいがち。
そこには、
●自分の描いている親像が、ことごとく壊れていく悲しさ。
●こちらが良かれと思ったことを受け入れてもらえない虚しさ。
●話が噛み合わないやりきれなさ。
なんかがあって、それが子供側としては苦しいんですよね。

だけどよーくよーく考えてみれば、
高齢の親が、この先、
自分が求める理解のある人間になるなんてことは100%ない!!
のです。
なのに期待して、期待して、期待して、撃沈するわけで。

それにしてもなんで期待しちゃうんでしょう。

今の社会がこんなに生きづらいのは、「諦めること=悪・残念な人」っていうイメージがあるせいだと思うんですよね。
勉強できないのに塾に行くとか、人付き合いが苦手なのに会社で仕事するとか。
できないことは諦めればいいし、望んでもどうしようもないことは諦めればいいものを、
なんとかあの手この手で手に入れようとするから無理が出る。

同じように、高齢の親の問題も、どこかで諦めることが肝心なんじゃないかと思うんです。
なにを諦めるのかは人によってそれぞれだけど、諦めることは全然悪いことじゃない、
「諦めること=健全なこと」
そう思えたら、解決の糸口が見えてきそうな気がします。

きみのや

まずは誰かと共有できるといいですね。

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