この記事は、2005年に、神戸でオープンした「ミドリカフェ」が、どんなふうに生まれ、発展し、つまづき、形態を変え、業態変更、閉店に至ったのか、厨房で料理を作り続けた私の視点から振り返り、ダイジェスト版としてまとめたものです。
カフェという、ひとつの時代を作った飲食店の経営をする中で、人生が大きく変わるような経験がいくつもありました。
不器用ながらも、がむしゃらに駆け抜けた、私たち夫婦の11年間のリアルを、時系列で紹介します。
(2005年〜2008年を前編、2009年〜2015年を後編としてまとめています。)
(※自営業でなにかを始めたい人や、カフェ経営について知りたい人、商売の理想と現実に悩む人などに参考にしていただけたらと思います。むろん、今の若い世代の人はとても賢くて、こんな泥臭い話は参考にならないかもしれませんが。^^;)
詳細な内容は、「ミドリカフェのごはん」という小冊子にまとめています(2017年発行・800円+送料)。購入を希望される方は、ブログ下部のお問い合わせよりメッセージしてください。
第一章 ミドリカフェオープン(2005年6月)
さてさて、ことの始まりは2004年。勤めていた会社を辞めて、造園設計の仕事で独立しようとしていた夫(当時はまだ彼氏)が、新しく友人と立ち上げる事務所に併設して、カフェがしたいと言い出しました。
なにを突然言いだすねん、と思いながらもよく聞けば、自然の素晴らしさを多くの人に伝えたい、そのためには飲食の提供やイベントができる場所が必要なんだという理由。
「いやいや、まずはお金かけずに本業の設計の仕事がんばるのが先やろ!!」と思った私ですが言い出せず、この動きをまるで他人事のように傍観してしまったのが全ての始まりでした。
その後計画はあっという間に進んでいき、なんと夫は元会社の先輩と共同で、本当にカフェをオープンさせることになったのです。
そして私はその直後、運命に引き寄せられるように夫と結婚。カフェと借金を道連れにした、楽しい(過酷な)新婚生活が幕を開けました。
料理人不在で始まった綱渡りの営業
実はこの店は初めから波乱含みでした。なんとオープン3日前に、厨房を任されていた女性の妊娠が発覚。仕事ができなくなった彼女の代わりに、やむなく急遽アルバイトを募集して、別に仕事をもっていた私が、夜と休日だけ臨時でサポートに入ることになったのです。
とはいえ、、アルバイトさんがいきなり厨房を取り仕切ることは不可能、そして私はといえば調理経験はほとんどなく、コーヒーを入れたこともなければパスタを作ったこともありません。
つまり、一言で言えば、「無謀」。
そして頼みの綱は、料理本のみ!!
唯一の方法は、原価率を無視した、上等な肉を使って調理技術をごまかす作戦!!
冷や汗ものの経験をいくつもしながら工夫を重ね、共同経営者であり当時オーナーでもあった夫の先輩と夫、そして私、アルバイトの主婦の方、この素人4人で力を合わせ、ランチメニューを作り続ける日々が続きました。
第二章 有機野菜・生産農家さんとの出会い(2005年8月)
ミドリカフェはもともと自然やナチュラルさを意識した店だったけれど、オープン当初は、飲食に関してのコンセプトがあまりはっきりしていませんでした。そんな時に大きな転機をもたらしてくれたのが、近所で有機野菜の販売店舗を経営し、生産者さんを応援したい!という熱い思いに溢れていた友人との出会いです。これをきっかけに、私たちは彼から農業の現状や有機野菜のことを教えてもらい、一緒に作業体験をしたりするようになります。
その後メニューに有機野菜を取り入れるようになり、「生産者さんの思いや美味しい野菜のことをたくさんの人に伝えるのが、自分たちの店の役目だ!」と、お店のコンセプトはぐっとオーガニックな方向へと切り替わっていったのです。
私の料理の基礎になったのは、数冊の料理本でした
こうして有機野菜などのいい食材を調理する機会がだんだん増えていったわけですが、私の料理の腕は、ずーっと半人前以下で、特に味付けの仕方がよくわからないままでいました。
当時の私は35歳。今思えば恥ずかしい話だけど、実家暮らしで母親が料理上手という環境でぬくぬく暮らしていた私には、自分一人でご飯を作った経験がほとんどなかったのです。何度も何度も「作り方教えて」と言ってみたけれど、母から帰ってくる言葉はいつも、「そんなもん適当や!」それだけ。笑 感覚で料理を作っていた母からしたら、教えることはすごくめんどくさかったんだと思います。
そんな私が結婚後に頼りにしたのは、大好きな料理人さんの出しているレシピ本でした。
それは、行正り香さんと土井善晴さんの料理本。
行正り香さんの本はすべてが普通の日常のごはん。主婦目線で、市販品や電子レンジも使いながら、シンプルで段取りよく作れることが大前提。なのですごく料理に対するハードルを下げてもらった気がします。
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そして、優しい語り口がたまらなく癒される土井善晴さん!きっちりしすぎないこと、ほどほどの大切さ、料理にも食べてもらう人にも愛情を込めて作るってこと。もう、なにもかもがストンと心の底から納得できて、私の料理に対する考え方のベースとなりました。
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第三章 東洋医学との出会い(2006年6月)
オープンから約半年の間、私は大阪でデザインレイアウトの仕事をしながらカフェの仕事を手伝っていましたが、ついに必要に迫られる形で仕事をやめてカフェの厨房に入ることになりました。
その頃「ロハス」や「ナチュラル」といった言葉が情報誌に取り上げられることが多く、ミドリカフェもたくさんの雑誌に掲載してもらったおかげで、「お洒落でナチュラルなカフェ」として次第に認知されるように。
お客さんの数も増え、アルバイトスタッフも常時5人を抱える中、イベントやワークショップの開催や音楽ライブに使われるなど、コンテンツは増える一方でした。
そんな風に慌ただしくもお店の個性ができ始めてきたころ、私たちにまた新たな出会いがありました。東洋医学や薬膳、色彩学、石鹸づくりなどの講座を開催していたとある女性と友人を通じて知り合ったのです。
この女性にはその後カフェで食養生の講座をしてもらうことになり、私も参加して東洋医学と食と体の関係についての様々なレクチャーを受けてみたら、、、そのシンプルで自然と調和した東洋医学の理論に感激した私。
ここで学んだ知識はすぐにでも日々の生活に取り入れたいと思うようなものばかりで、カフェのコンセプトにも飲食メニューにも「薬膳」というキーワードが加わることになりました。
東洋医学に興味を持った私がいちばん分かりやすいと思った二冊の本はこちら。↓
第四章 最盛期、そして店舗移転(2008年7月)
オープンから3年が経った頃、ミドリカフェは行列ができるほどの人気カフェになっていました。安心安全な食材に、全てが手作りの料理とスイーツ、毎日変わるメニューの数々に、物販やイベントも充実。
だけどその裏側、厨房内では日々相当な苦労がありました。
朝から夜遅くまでの仕込み、営業、新メニューの考案、物販商品作りと、仕事量は増える一方、なのに思うような利益がでない無力感を感じながら、夫たち経営側の理想の形ばかりを追い求めるやり方に、他のスタッフも私もどんどん疲弊し、追い詰められていきます。そしてほどなく全てが限界に達し、ミドリカフェは解散と移転を決めることになるのです。
一旦全ての業務を終了すること、そしてもう一度原点に立ち返って今後を考えること、それが、その時の自分たちにできる、唯一のことでした。
石垣島で経験した、価値観が変わったできごと
カフェが一旦閉店となったこの時、私たち夫婦はここぞとばかりに旅に出ることにしました。行き先は沖縄県石垣島。それは結婚と同時に始まったカフェ経営で、一度も旅行をしたことがなかった私たちの念願の旅でした。
ここで私たちは価値観がガラリと変わる経験をします。それは、ゆるーく、力を抜いて、穏やかに暮らしている沖縄の人と接したこと。それまでの私たちは、ミーティングして、マニュアル作って、売り上げ目標立てて、必死の形相でがんばることが正しいって思ってた。でも、そんなやり方がどれほど不自然なことだったかに気付かされたんです。働く人の心を置き去りにしてたこと、そもそもなんのためにカフェを作ったのかっていういちばん大事なことを置き去りにしてたこと。本当に大切なことはなんなのか、きれいな海と、おおらかな沖縄の人たちに教えられたこの旅は、人生の転機になりました。
と、ここまでが前半のお話です。
この後、価値観が変わった私たちは、新しい物件に移転して夫婦二人だけでミドリカフェを再開することになります。
※ちなみに夫婦でカフェ経営が目的みたいになってるけども、そもそも夫の仕事は造園設計です。しかし動き出した船は止められませんでした。カフェ中心のカフェファーストな生活が、この後も続くのでした。(後編につづく)
後編はこちら。↓
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