【ミドリカフェの歴史】11年続いた人気オーガニックカフェの裏で起きていたこと(ダイジェスト版/後編)

この記事は、2005年に、神戸でオープンした「ミドリカフェ」が、どんなふうに生まれ、発展し、つまづき、形態を変え、業態変更、閉店に至ったのか、厨房で料理を作り続けた私の視点から振り返り、ダイジェスト版としてまとめたものです。

カフェという、ひとつの時代を作った飲食店の経営をする中で、人生が大きく変わるような経験がいくつもありました。
不器用ながらも、がむしゃらに駆け抜けた、私たち夫婦の11年間のリアルを、時系列で紹介します。
(2005年〜2008年を前編、2009年〜2015年を後編としてまとめています。)

(※自営業でなにかを始めたい人や、カフェ経営について知りたい人、商売の理想と現実に悩む人などに参考にしていただけたらと思います。むろん、今の若い世代の人はとても賢くて、こんな泥臭い話は参考にならないかもしれませんが。^^;)

きみのや

詳細な内容は、「ミドリカフェのごはん」という小冊子にまとめています(2017年発行・800円+送料)。購入を希望される方は、ブログ下部のお問い合わせよりメッセージしてください。

前編はこちらからどうぞ。↓

目次

第5章 唯一無二の場所として( 2008年)

石垣島から戻った私たちが決めたこと、それは、今度こそ、「自然や緑に興味がある人たちが集ってくれて、私たちも一緒に座っていろんな話ができるような、我が家のリビングに来てもらうような感覚のお店作りをしよう」ということでした。
そのため、もう一度物件を探して見つけたのが移転後のミドリカフェの場所。
気持ちいい風が入る山の麓の住宅街のマンションの半地下で、イメージよりも相当広かったけれど、その空気感が気に入って即決した物件でした。

共同経営は前店舗を出る時に解消していたので、ここからは夫婦二人だけでの経営です。新たな借り入れをして、私の独身時代の貯金をすべて使っても、回転資金もなにもないぎりぎりの状態での再出発になりました。

正直飲食店にここまで人生をかけることになるだなんて想定外ではあったけれど、動き出してしまった以上、もはややる以外に選択肢がなく、ここから私はそれまで5人のスタッフと共にこなしていた厨房の仕事をほぼ一人ですることになります。
それがどれほど大変なことか、もちろんある程度想像はできていました。おまけに40歳を目前にしてこんなことを始めることと、子供を持ちたい気持ちとの折り合いが全くつかず、かなり苦しかったです。また、前店舗のときから、厨房の仕事がきつくて時々過呼吸になっていたので、そもそも体力的にやっていけないとも思っていました。

それでも、そんな気持ちを抱えたまま、なぜか自分の気持ちと違う方向に進んでいく現実に逆らえず、大きな流れに押し流されるように日々の仕事が動き出しました。
この感じは、結婚を決めた時とすごく似ていて、自分の意思ではないなにか、もっともっと大きな力が働いて誘導されているような感覚でした。そして明らかに危険な方・不安な方と分かっていて飛び込んでしまうという、自分のMさ加減に自分で溺れていくのでした。

私らしい、私のごはんを食べてもらえばいいんだと気づく

元々自然の素晴らしさやヘルシーさを意識した食事とカフェメニューを提供していたミドリカフェですが、移転後はよりコンセプトを絞り込むことにしました。石垣島で気づいた、「無理しない生き方」「力を抜いて暮らす」ことを大切にするために、飲食メニューはすべて農家さんの畑のスケジュールに合わせることに。旬の野菜を中心に、夏の野菜は夏に食べ、冬の野菜は冬に食べる。自然の法則に逆らった無理なことはしないんだけど、決してオーガニックに固執しすぎないような路線にしたのです。
提供するごはんは、無農薬野菜中心のおかずと、黒米や押麦入りのごはん、煮干しだしのお味噌汁にお漬物という、日本の家庭の普通のごはん。肉や魚はできるだけ国産の新鮮なものを使い、器にもこだわって、ごはんは必ずお茶碗で。ここでは雑誌に出てくるような、つるんとしたカフェっぽさは必要ない、だれもがいちばん求めていて、だけど外では食べられない、そんなごはんを作ることにしました。

当時の有機米ランチの一例

そしてスイーツも季節の野菜や果物で。

器は陶芸家三木理恵さんの作品です。手馴染みがよくて優しさと強さを併せ持った、使うほどに良さがわかる器の数々。
作家さんの想いも加わって、メニューは一層温かいものになっていきました。

苦しみの後に待っていたのは、たくさんの仲間たち

移転後は結果8年間営業したわけだけど、なかなか事業計画通りには進まず、その半分の最初の4年間は辛いことと苦しいことの連続で、金銭面と体調面、精神面の負の連鎖にどっぷりハマってしまいました。誰にも言えず無理を重ねる日々で、過呼吸の再発と味覚障害も起きるように。それでも夫婦で話し合う夜を繰り返しながら、休まずに飲食サービスとイベント開催を続けました。私としては結婚後一番キツイ時期でしたね。やってもやっても利益が出ない、家賃も払えないような暮らし。夫婦でオーガニックカフェだなんて素敵ねという周りの声とのギャップにも、居心地の悪さを感じてました。

しかし、いろいろ限界だった一方、コンセプトが明確になったおかげで、ミドリカフェは次第に自然に関連するイベントを開催する場所として、多くの人に利用してもらえるようになります。夫も日々のカフェ業務を手伝う傍ら、ようやく本来の仕事であるランドスケープにつながるような人との出会いが増え、一緒にイベントや環境活動の取り組みを立ち上げたりするように。この動きはどんどん広がって、いつしかミドリカフェは農や食・環境問題・オーガニックな物事に関わる人たちの集まる場所として知られるようになったのです。中学生から年配の方まで、年齢も職業もばらばらな人たちが、イベントなどで顔を合わせ、知り合って、意見を交わし、楽しい時間を過ごす。そのうち悩んでばかりだった私たちのところに、同じように悩みを抱えた多くの人が、その疲れた心を打ち明けにきてくれるまでになりました。

それまでずっと、友達の作り方もわからず、心を閉ざしたままカフェをやっていた私に、なんでも話せる友人ができたのは、こうした経験があったから。振り返れば辛いこと9割だったけど、それがなかったら今の人間関係はなかったなと思います。

学生さんにもよく使ってもらいました。

第6章 たどり着いた理想の形(2014〜)

飲食店でありながら、コミュニティースペースのようになっていったミドリカフェで、今度は“飲食店としてのあり方”に悩む日々が続いていました。
その中で最も大きな悩みだったのは、あらゆる種類のお客さんに笑顔で正しい接客をしなくちゃいけないと思っていたこと。これは11年間、最初から最後までずっとストレスに感じていたことでした。なぜなら私は人と関わるのが本当に苦手だから。カフェというのは、一日中オープン状態、いろんなお客さんが突然前触れもなくやってきて、一定の時間を過ごして帰っていく。当たり前なんだけど、この恐怖と毎日戦っていたんです。
中でも、料理に興味のない人やごはんになかなか手をつけない人、野菜を残す人、誰かの悪口を何時間も話しているママさんグループなど、ただ“喋れる場所”として使われてる感がしんどくて、毎日走り回っていい食材を探して料理している自分が虚しく思えることがありました。

カフェ→バー→小料理屋へ

そんなお客さんとのやりとりに疲れ切った私の心臓には、日に日に毛が生えるようになり、ちょっとした開き直りモードに入っていきます。入り口ドアに、ややきつめの貼り紙をしてみたり、マナーのない人にはあからさまに睨みつけたり、騒ぐ子供にも容赦無く注意するようになっていきます。飲食店として間違っているかもしれないけれど、どうしても我慢できなかった。そしたらお客さんの数がすごく減りました。笑 
売り上げも減ってきて、焦った私たちは、なんとカフェの営業終了後の夜に会員制のバーを始めます。本当においしいお酒と酒のアテを用意して。知人にむけた事前招待制の隠れ家バー。ひっそりとはじめた新しいチャレンジでしたが、これが実際はじめてみると、みんなが楽しみにしているのは私の作る家庭料理だということがわかったんです。そしてその後バーと言いながらも小料理屋のような形態に変化していって、おでんや串カツ、牛すじにチゲ鍋と、酒飲みが喜ぶメニューばかりを作るようになりました。
この経験は、自分の好きなこと、料理の好みをはっきりを教えてくれた気がします。もともとカフェらしい雰囲気やおしゃれさが苦手なこともあるけれど、どうも私は一杯飲み屋の雰囲気が好きみたい。そしてそこにきてくれる人の人生と喜怒哀楽のすべてが好きみたい。
もしいつかまた人に料理を作るチャンスができたなら、L字のカウンター6席ぐらいの小さな店で、プロ野球中継でも流しながら、旬の食材のお惣菜と、最後にお茶漬けでも食べて帰ってもらいたい。だれかの心に温かい灯りをともす、料理と愛情の記憶を持って帰ってもらいたい。そして生きる力にしてもらう。それが私の理想です。

カフェでは作らなかった和風料理を出すように

カフェを閉めた理由と、後になってわかったこと

カフェを閉めることにした理由は、大きく分けて2つありました。
ひとつ目は、自分たちのやり方では、維持費と利益のバランスがとれなかったこと。
ふたつ目は、私が初めから10年を一区切りと決めていたことです。

私はカフェの厨房に入ることになった時、10年はがんばると自分で決めていました。夫のやりたいこと(カフェ)を支えるのは10年まで。10年経てば、きっとなにかわかることがあるはずだと腹を括っていたから。
なので多くの人に残念と言ってもらった閉店時も、私はようやく終われるなぁという安堵の気持ちしかありませんでした。

最終営業日の閉店時間、一人店内を見渡した瞬間、こみ上げる思いを抑えきれずに号泣した私。
それまでのあらゆる感情が一気に押し寄せてきて、自分をコントロールできなくなるほどに、、。
そのとき初めて、自分で自分に「よくやったね」と言えました。

その時はただただほっとした気持ちでいっぱいだった私ですが、その後になって振り返ってみると、自分たちのやってきたことがどれほど貴重でかけがえのない人生経験だったのかを思い知らされています。人付き合いが苦手だった私にたくさんの友人や仲間ができたこと、ひとつひとつの経験が、これからの生きる自信にも武器にもなるってこと、そしてミドリカフェという誰にも真似できない宝石のような場所を作ったという誇りも。

一人では到底できなかった。夫や家族、友人の存在が、今の私を作ってくれました。

最後に:料理は愛そのもの

ネット社会が加速して、昨日まで正しいとされてきたことが突然非難されるようなことがあったり、姿の見えない誰かが別の誰かを攻撃するようなことが、今どんどん増えてきています。そして生きづらい世の中でのしわ寄せはきまって弱い立場の人に。大人も子供も関係なく、孤独感や不安感、無力感を感じたり、親からの愛情が足りずに育った子供は大人になっても自己肯定感がもてないまま、生きることそのものが苦難に満ちたものになってしまいます。
そうしたときに、愛されること、大切にされること、そこさえ実感できれば、いざという時の生きる力につながると思うんです。そしてそれを、一番わかりやすく伝えることができるのが、温かい手料理なんだと思います。

料理は愛そのものです。愛に満ちた人が作ったごはんには、たとえインスタントであろうとなんだろうと、生きる力が込められています。雑誌に載ったとかお洒落だとか、そんなことよりも、誰も見ていないところで家族や友人の体を気遣ってただ黙々と作る。それこそが最も尊くて美しいことだと、私は確信しています。

ミドリカフェで私がしてきたことは決して特別なことではありません。なぜならみんなが美味しいと言って食べてくれたごはんの秘密は、調理の技術でもレシピでもなく、「こうしたら美味しいかな」「こうしたら喜んでくれるかな」といったほんの小さな想像の積み重ねだから。

カフェに限らず、どんな場所でも、どんな環境でも、これからも料理で愛と生きる力を伝えたい。

私の人生の大きな道案内をしてくれたような、そんな11年のカフェでの経験でした。
(おわり)

ミドリカフェ
2005年から約11年間に渡り、夫の造園設計事務所に併設する形で、夫婦で経営していたオーガニックカフェ。人付き合いがうまくできなかった私が、初対面の人と話せるようになったり、家族のように親しくさせてもらうような友人ができたのは、ほとんどすべて、この経験のおかげです。人が集える場というものの大切さを、身を持って学んだ宝箱のような場所でした。
ミドリカフェの歴史をまとめた冊子「ミドリカフェのごはん(800円・送料別)」を販売しています。購入希望の方はブログ下部のお問い合わせから、メッセージください。

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